【ロサンゼルス】全米日系人博物館で先人たちへ思いを馳せる
こんにちは!
先日訪れたロサンゼルス・リトルトーキョーの全米日系人博物館(Japanese American National Museum)について紹介します。
現在、アメリカには146万人強の日系アメリカ人(総人口の約0.4%)がおり、その歴史は19世紀末に始まります。自らアメリカに渡ってきた人たちを一世、その子供たちを二世と呼び、Issei、Niseiと英語にもなっています。戦後生まれの三世、四世、五世は、日本語を話さない人がほとんどです。
私が渡米して初めて住んだカリフォルニアの内陸部では、日本人はほとんどおらず、不安だったとき、日系の方の苗字を見たり、聞いたりしただけでほっとしたものです。
日系アメリカ人の英語はネイティブなんですが、骨格が近いせいか、なぜか聴き取りやすい!そして、文化に精通しているからか、こちらの伝えたいことも理解してくれる・・・頼れる存在でした。
夢を抱いて渡米するも排斥運動の的に
同博物館へは10年以上ぶりに訪れました。日系人の歴史にそれなりの知識はあったものの、あらためて資料や写真を見ると、胸が締め付けられる思いです。
最初の移民たちは、サトウキビやパイナップル畑の労働者として入植。しかし、低賃金でも勤勉な国民性に加え、異なる宗教と肌の色から、マジョリティーである白人系アメリカ人から排斥運動が起こり、日系人を含むアジア系移民は『帰化不能外国人』と認定され、市民権を得ることができませんでした。
日系の子供たちは優秀で勉強もできたにもかかわらず、先生からも差別されたと聞きます。きっと、子供たちは仲良くしてただろうに、大人によって友達とも引き裂かれてしまったかもしれません。
隠蔽されたマンソン・レポート
日米開戦の可能性が高まる中、アメリカ国務省は、特別調査官としてカーチス・マンソンを西海岸とハワイへ派遣し、日系人のアメリカへ対する忠誠を確かめさせました。
1941年11月、ルーズベルト大統領に提出されたマンソンのレポートには、「日系人に対する軍事的措置の必要性はない」、「彼らの生活は誇り高く自制されたものである」、「アメリカへの強い忠誠心がある」とはっきり記されています。
しかしながら、このレポートは完全に無視、隠蔽されてしまいました。
真珠湾攻撃から強制収容へ
その後も、日系人にとって最悪の情勢へ進んでいきます。日本軍のハワイ真珠湾攻撃をきっかけに、どんなにアメリカへの忠誠を誓っても、敵国の人間と見なされ強制収容の対象となりました。
それまで築き上げてきた財産はすべて没収、収容所へ持って行けたのはスーツケース一つだけだったそうです。
ほとんどの収容所が都市から離れた内陸や砂漠地帯に建設されました。乾ききっていない木材を使ったため、隙間だらけ・・・夜間は氷点下になり、寒さとの闘いです。この小さなスペースに4~6人が暮らしていました。
ちなみに、当時ハワイでは日系人が総人口の40%を占めており、物理的に無理だったため強制収容は行われませんでした。
アメリカ人として闘う日系二世
アメリカ生まれの二世たちは、どんな気持ちで闘っていたのでしょうか。家族を守るため、アメリカで生き延びるため、自分たちの名誉を取り戻すために必死だったんだと思います。
アメリカ軍全連隊の中で最も高い累積死傷率という犠牲の上での最多勲章でした。
アメリカ政府が謝罪、日系人の功績が認められる
日系人連隊の活躍もあり、戦後、日本生まれの日系一世にも市民権取得の道が開けます。1963年、ダニエル・イノウエが日系人初の上院議員に選出。67年、 新移民法成立で日本人を含むアジア系移民に対する差別的条項が撤廃。
80年、連邦議会で初めて戦時中の日系人の強制収容に関する調査委員会が設置、83年、同委員会が戦時中の日系人収容は機密上必要ではなかったとする結論を発表。
アメリカ政府が正式に、人種差別に基づく日系人強制収容の事実を認め、謝罪し、一人につき2万ドルの補償を行うことを決定しました。
100年もの歳月を費やし、日系人が真にアメリカ人と認められた瞬間です。
さらに、2010年、オバマ大統領は、陸軍情報部と第442連隊戦闘団にアメリカ合衆国において最高位の勲章である議会名誉黄金勲章を授与する法案に署名しました。
日系人のみなさんのおかげで、現在、私たちがなんの不自由なくアメリカで暮らしたり、旅行したりできているんですよね!
尊敬と感謝を胸に先人に思いを馳せた一日でした。
(参考文献)
Home | Japanese American National Museum